大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和30年(行)127号 判決 1956年4月07日

国籍

住所

和歌山県西牟婁郡江住村大字見老津二二七番地

原告

間所敏雄(訴訟代理人 岡村玄治)

被告

国 代表者 法務大臣

主文

原告は日本国籍を有しないことを確認する。

訴訟費用は被告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は主文と同旨の判決を求め、その請求の原因及被告主張事実に対する答弁として次のとおり述べた。

一、原告は大正十五年(西暦一九二六年)七月六日アメリカ合衆国で日本人間所三之助を父として出生し、日米両国籍を取得したが日本国籍を留保する意思表示をしなかつたのでこれを喪失した。

二、昭和十七年十月二十二日原告の日本国籍回復の許可の申請が内務大臣になされ昭和十八年四月二十三日内務大臣はこれを許可し、その結果和歌山西牟婁郡江住村大字見老津二百二十七番地に原告の一家創立の旨戸籍に記載されている。

三、しかし、右原告の日本国籍回復許可の申請は次に述べる事情によつて、原告の祖母志ゆんが、原告不知の間にその意思に反して原告名義を冐用してなしたものであるから無効であり、この申請に対してなされた内務大臣の許可もまた無効であるから原告は日本国籍を有しない。

即ち原告は昭和八年三月日本で教育を受ける目的で六才の時来日し、右志ゆん方で居住し右江住村の小学校に入学し同校高等科一年を終了した後、串本町の商業学校に入学したが、昭和十六年日米間に戦争が勃発した。そこで右志ゆんは日本国籍を有しない原告に対し食糧の配給を停止されたり、或いは憲兵に監視され、スパイ行為等の嫌疑を受けることを恐れて原告の国籍を回復しようと考え、原告には知らさないで原告名義を冐用してその国籍回復許可の申請をなしたものである。

立証として甲第一号証第二号証の一ないし四を提出し、証人里見志ゆんの証言と原告本人尋問の結果を援用し、乙第一号証の成立は否認した。

被告指定代理人は「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求め、請求原因事実が反する答弁及び主張として次のとおり述べた。

一、請求原因事実一、二に記載の事実を認める。

二、同三記載の事実はすべて争う。

原告の国籍回復許可の申請は原告本人によつてなされたものである。

立証として乙第一号証を提出し、甲号各証の成立を認めた。

理由

原告が大正十五年(西暦一九二六年)七月六日アメリカ合衆国で日本人間所三之助を父として出生し、日米両国籍を取得したが日本国籍を留保する意思表示をしなかつたのでこれを喪失したこと、昭和十七年十月二十二日原告の日本国籍回復許可の申請が内務大臣になされ、昭和十八年四月二十三日内務大臣は右申請を許可し、その結果和歌山県西牟婁郡江住村大字見老津二百二十七番地に一家創立の旨戸籍に記載されていることはすべて当事者間に争いがない。

証人里見志ゆん証言と原告本人尋問の結果を綜合すると原告は昭和八年頃母の里見きくのに伴われて兄弟四人とともに日本で教育を受ける目的で来日し、前記江住村大字見老津所在の母方の祖母里見志ゆん方で養育され、見老津小学校に入学し、同校高等科一年を経て串本商業学校へ入学したがその頃日米間に戦争が勃発した。開戦になつて、右志ゆんは、米国籍の原告には食糧の配給が受けられなくなるとの噂を聞き、若し食糧の配給が停止されるようなことになれば原告の養育もできないと考えて、原告の日本国籍を回復しようと決心し、原告には相談しないで、江住村役場の戸籍係員に依頼し、原告の国籍回復許可の申請をしたこと、原告は昭和二十年一月徴兵検査の通知を受けて不審に思い右志ゆんに尋ねた結果はじめて原告の国籍回復許可の申請をしたことを聞いて知つたこと、当時父及び原告と一緒に来日したが昭和十二年再び母と一緒に渡米した兄は米国に居住しており原告も帰米する考えであつたので、日本国籍を回復する考えはなかつたこと等が認められる。右認定を左右するに足りる証拠はない。そうすると昭和十七年十月二十二日当時原告が十六歳三ケ月余に達していたことは計算上明らかであるから、祖母志ゆんが原告名義を冒用してなした原告の国籍回復許可の申請は無効であり、従つて右申請を許可した内務大臣の処分も無効であるといわなければならないから、原告は日本国籍を回復したとは云えない。

そして原告は日本国籍を有するとして取扱われているのであるから、本訴について確認の利益を有することも明らかである。

よつて原告の本訴請求は理由があるからこれを認容し、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟特例法第一条民事訴訟法第八十九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判官 岩部徹 富川盛介 井関浩)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例